「えええっ!?わっ、私がですか!?」
橙子さんの思わぬ頼み事に、私は素っ頓狂な声を出してしまう。
ちょ、ちょっと待って。藍を起こしてって、さすがにそれはちょっと……気まずいというか、何というか。
「もしかして、萌果ちゃん。5年前に藍が、あなたに告白したときのことを気にしてるの?」
「えっ!橙子さん、藍の告白のこと知ってるんですか!?」
「そりゃあもちろん、親だもの。あの子、萌果ちゃんに振られたあと、わんわん泣きながら家に帰ってきて……」
「うう。あのときは、すみませんでした」
急に申し訳なくなって、私は橙子さんに頭を下げる。
「告白を受けるも受けないも、萌果ちゃんの自由なんだから。気にしなくていいわよ。あれから5年経ったし。藍ももう、とっくに吹っ切れてるわ」
橙子さんが、私の肩にポンと手を置く。
「藍ね、あれからずっと萌果ちゃんに会いたがっていたのよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。だから、萌果ちゃんが起こしに行ってくれたら藍もきっと喜ぶわ。萌果ちゃん、お願いできる?」
「はい。わかりました」
橙子さんに返事すると、私は2階へと続く階段をのぼった。
自分は居候させてもらう身だから、断れずに引き受けたっていうのもあるけど。藍が私に会いたがっていたと橙子さんから聞いて、やっぱり嬉しかったから。
階段をのぼりきり、廊下を歩いて一番奥が藍の部屋。
橙子さんにOKしたとはいえ、藍とは5年ぶりに会うから。藍の部屋の前に立つと、やっぱり緊張する……!
──コンコン。
意を決してノックしてみるけど、ドアの向こうからは返事がない。橙子さんがグッスリだって言ってたから、さすがに起きてるってことはなかったか。
「お邪魔しまーす」
声をかけると、私はドアを開けて藍の部屋へと足を踏み入れる。開いたカーテンから陽が射し込む部屋は、オレンジ色に染まっていた。
ベッドで仰向けに寝ている藍に、私はそーっと近づく。
「綺麗……」
思わず口からこぼれた言葉。だって、藍の寝顔がすごく綺麗だったから。
藍のチョコレート色のサラサラの髪が、窓から入ってくる風で揺れる。
藍はまつ毛が長くて、肌も透き通るように白くて。寝顔ですら美しい。
さすが、モデルをやっているだけあるよなぁ……って、まずい。見とれている場合じゃなかった。
私には、藍を起こすという大事な使命があるんだった。
「ら、藍……?」
そっと声をかけてみるも、ピクリとも動かない。
次に私は藍の身体を2、3回揺すってみた。それでも藍は、なかなか目を覚まさない。
「らーんー!」
耳元で叫んでみても、とんとんっと軽く肩を押してみてもダメ。
「久住くーん!」
名前を呼んで起きないのならと、苗字で呼んでみるも意味なし。
どうしよう。一体どうやったら、藍は起きてくれるの?藍って小学生の頃、こんなに寝起きが悪かったかな?
「ねえ。起きてよ、ら……っひゃ!?」
指先を肩につけて、もう一度揺さぶったときだった。
藍の手が伸びてきたと思ったら、私の腕をガシッと掴んで……私はそのまま、藍に抱き寄せられてしまった。
え、え!?
藍の腕が、私の背中へとまわされる。
ちょ、ちょっと待って!一体、何がどうなってるの!?
私は軽くパニックになる。
藍の体温が直に伝わってきて……もしかして、私いま……藍に抱きしめられてる!?
俺は、隠れていた木の後ろから飛び出し、萌果の名前を叫んでしまった。サングラスを外して、キャップもずらす。「えっ、うそ……藍!?どうしてここに!?」俺だと分かった萌果が、驚きで目を丸くする。「え、この人誰?」夏樹も驚いたように、俺を見る。「つーかアンタ、すげーカッコいいじゃん!萌果の知り合いか!?」「俺の名前は、久住藍。萌果の……幼なじみだ」本当は、萌果の恋人だってはっきり言いたいところだけど。萌果と交際していることが世間にバレるとまずいから、ここは我慢。「えっ、久住藍ってもしかして……あの、モデルの!?」夏樹に言い当てられ、俺はすぐにサングラスをかけ直す。街中と比べて公園は人通りが少ないけど、念のため。「すっげー!あたし、芸能人とか初めて見たよ」夏樹が、興奮したように言う。ていうか夏樹、今……自分のことを『あたし』って言ったよな?「ねえ、藍。その格好どうしたの?もしかして、変装?めちゃくちゃ派手だね!」俺を見て、萌果がクスクス笑う。「いや、これは……」「もしかして藍、私のことが心配できてくれたの?」萌果がそっと、俺の手を握る。優しい声に、胸がドキドキして。俺は思わず、萌果を軽く抱き寄せた。「だって、男友達とのあんな仲良さそうな写真を見せられたら、俺……居ても立ってもいられなくなって。そのうえ、萌果が夏樹とキスしそうになってるのを見たら……」「え、ちょっと待ってよ、藍。私、夏樹とキスなんてしてないよ?」えっ!?「ああ、萌果の言うとおり。萌果の前髪に虫がついていたから。驚かせないように、そっと取ろうとしただけだよ」「ほんとに?」「ああ。だから、アンタが思ってるようなことは何もないよ」なんだ、そうだったのか。「それに、夏樹は男の子じゃなくて、女の子だからね!?」萌果が、呆れたように、だけど少しだけ怒ったような声でそう言った。え、うそだろ!?その言葉が、俺の頭の中に雷鳴のように響き渡る。それじゃあ、さっきの『あたし』という一人称は、やはり聞き間違いではなかったのだ。5時間にも及ぶ俺のドタバタ劇は、すべてこの誤解の上に成り立っていたのか……。俺は、その場で全身から力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。「そういうことだから。よろしく、藍くん!」夏樹が、ケラケラ笑う。まさか、夏樹が女だったなんて。俺のこの
【萌果side】オシャレなカフェで、久しぶりに会った友達とティータイム中の私。白いテーブルクロスに、カラフルなカップが映える店内。窓の外では、新緑の街路樹が、初夏の風に揺れている。夏樹とは数か月ぶりに会ったけど、やっぱり気心の知れた友達とのおしゃべりは最高に楽しい。福岡に住んでいた頃、カラオケで熱唱したり、部活の帰りに一緒にコンビニでアイスを買って食べた思い出がよみがえる。「なあ、萌果。最近どう?もしかして、彼氏とかできた?」 夏樹が、アイスティーを豪快に飲み干してニヤニヤ。「えっ!」『彼氏』というワードに、肩が跳ねる。「ええっと……うん。実は、最近できたんだよね……彼氏」答えながら照れくさくなって、私はうつむく。「やっぱり!なあ、どんなヤツ?」人気モデルの久住藍が、私の幼なじみだってことは、夏樹はもちろん知らない。藍のこと、できれば夏樹にも話したいけど……。藍は芸能人だから、いくら友達が相手でも詳しくは話せないよね。今ここで、藍の名前を言えないのは辛いけど。彼のあの笑顔を思い出すだけで、胸が温かくなる。「えっと、彼氏は、同じ高校の同級生なんだけど……ごめん。相手のこと、今は詳しくは言えなくて」藍の所属事務所の社長さんに会ったときも、藍との交際は絶対に世間にはバレないようにしてって言われたし。「そっか……。まあ、相手がどんなヤツかは分からなくても、萌果が幸せだってことだけは分かるから」夏樹……。「今の萌果、本当にいい顔してるよ。あんたが東京に行っちまうって聞いたときは、心配だったけど。萌果がそういう人に出会えたって、今日分かっただけでも良かったよ」夏樹が、私に優しく微笑んでくれる。夏樹は中学の頃から、いつも面倒見のいい子で、頼りがいがあって。友達みんなのお姉さんのような、お兄さんのような……そんな子だった。「ありがとう、夏樹。いつか彼氏のこと、紹介できる日がきたら、そのときは夏樹にも紹介させてね」「ああ」夏樹にお礼を伝えたそのとき。ふと、背筋にぞくり、と冷たいものが走るような視線を感じた。「えっ?」思わず、そちらに目を向ける。そして、その視線の主を見た瞬間、私は思わず息をのんだ。だって、窓際の隅の席に座っていたのは、あまりにも派手なアロハシャツを着た男の人で、こちらを食い入るようにじっと見つめていたのだから。
思い立った俺は急いで2階に行き、母さんのクローゼットからブルーと白のアロハシャツを引っ張り出す。これは母さんが昔、父さんと新婚旅行でハワイに行ったとき、旅の記念に買ったものらしい。アロハシャツは正直、派手でダサいけど……これも変装のためだ。デニムを履き、サングラスとキャップをして……シャツの裾を軽く結んで、なんとか自分らしく。着替えを終え、鏡に映る自分を見た俺は、思わず苦笑。やべぇ。この格好、めちゃくちゃ派手だな。まあ、モデルの久住藍がまさかこんな格好で街を出歩いているなんて、誰も思わないだろうし。萌果やファンの子たちに、バレなきゃいいんだ。そう自分に言い聞かせると、俺はサンダルを履いて走って家を出た。◇自宅の最寄り駅から電車に揺られ、3駅先の街へとやってきた。俺は萌果にバレないよう距離をとり、彼女の後ろ姿を遠目に追う。夏樹とはどうやら駅前で待ち合わせらしく、萌果が噴水の前に立つ。ふわりと風が吹き、萌果のミディスカートの裾がなびく。噴水の前を通り過ぎる人たち……特に若い男が萌果のほうをチラチラと見ていくのは、気のせいだろうか。「萌果!」声がしてそちらに目をやると、短髪の奴が萌果に向かって手を振っている。あの子が……夏樹か。夏樹は黒の半袖シャツに、ライトグレーのチノパンに白のスニーカー。肩に小さめのリュックをかけ直しながら、低い声で笑う。うん。夏樹は高身長で、見た目からしても男っぽいし……やっぱり間違いないな。「夏樹!」萌果が弾けるような声で夏樹の名を呼び、迷いなくタタタッと駆け寄る。そして、夏樹の胸に飛び込むように、思いきり抱きついた──。その光景に、俺の心臓はドクンと大きく跳ねる。はああ!?抱きつくって!?まるで殴られたような衝撃に、俺はグラリとよろめく。萌果が、俺以外の男に、あんな風に抱きつくなんて……信じられない。まだデートの序盤だというのに、すでに胸がキリキリと痛む。目の前の光景が、鈍い痛みを伴って俺の心を蝕んでいくようだった。そうこうしているうちに、二人が近くのカフェに入るのが見えた。俺もコソコソと後ろからついていき、窓際の隅の席に腰かける。淹れたてのコーヒーの香ばしい匂いが、俺の鼻をくすぐる。俺は一息つくと、サングラスをずらして周囲を確認。このアロハシャツ、おしゃれなカフェの店内では少し浮
【藍side】 5月のとある休日。昼食を終えた俺は、萌果とリビングのソファに肩を並べて座り、テレビで流れるバラエティ番組をぼんやりと眺めていた。 萌果の隣にいるだけで、穏やかな時間が流れる。 ~♪ 突然、軽快な着信音が響き、萌果のスマホが光った。 「あっ。夏樹(なつき)からだ」 画面を覗き込む萌果の顔が、みるみるうちに輝きだす。 その屈託のない笑顔に、俺の心は一瞬で鷲掴みにされる。 本当に可愛い……って。いや、待てよ? 今、萌果ちゃん、『夏樹』って言ったよな? その名前は、もしかして……? 「ねえ。藍、聞いて!今度、福岡に住んでいたときの友達が、東京に遊びに来るんだって!」 萌果の声が弾む。その声が、俺の胸に小さくさざ波を立てた。 福岡――それは、俺と萌果が離れて過ごした5年間を意味する。俺の知らない、彼女の過去の話に、胸の奥がじんわりとざわつく。 「へえ、どんな子?」 心の内を隠すよう、俺は声を低くした。 「夏樹?すごく元気な子で、いつも一緒にバカなことやってたなあ。懐かしい」 萌果が、昔を懐かしむよう宙を仰ぐ。 「ほら、藍。見て。この子が夏樹だよ」 萌果が、無邪気な笑顔でスマホを俺に差し出してくる。 その画面を覗き込んだ瞬間、俺の視界は一気に凍りついた。 写っていたのは、中学の制服姿で屈託なく笑う萌果と……短髪で、驚くほど整った顔立ちの「男」。 俺の心臓が、ドクン、と不穏な音を立てて大きく脈打つ。 おいおい、夏樹って、どう見ても男じゃないか!? カーキ色のシャツをラフに着こなし、萌果の肩に当たり前のように腕を回している。その男は、眩しいほどの笑顔で、萌果にぴったりと寄り添っていた。 くそっ、なんだこの近すぎる距離は! 「……へえ、この子が」 努めて冷静を装ったはずなのに、萌果に尋ねる声が、わずかに震えた。 やばい。落ち着け、俺。 「それでね、来週の土曜日に夏樹と会おうってことになって」 萌果の無邪気な笑顔が、逆に俺の心をざわつかせる。 来週の土曜、萌果があの男とふたりで会うのか? いやいや、ダメだろ。俺という彼氏がいながら、他の男と堂々と会うなんて……! 萌果は友達って言うけど、あの写真の距離感は絶対に怪しいだろ。 もしかしたら、夏樹が萌果の元カレとか初恋の相手って可能性も……。 「萌果ちゃ
「藍がやりたいのなら、俳優のお仕事も絶対にやったほうがいいよ!」 「萌果……。でも……」 藍の表情が、わずかに曇る。 「萌果は、嫌じゃない?」 「何が?」 「俺が、テレビで女の子と共演するのがさ。俺は、萌果が嫌って思うのが嫌なんだよ」 私が……? 「事務所で俳優をやってる先輩が恋愛ドラマに出たら、付き合ってる彼女に『他の女の子と、抱き合ったりキスしないで!』って、言われたらしくて。結局、それが原因で別れたって聞いたから」 「大丈夫だよ」 私は、藍の頬をそっと両手で挟む。 「そりゃあ私だって、自分の彼氏が他の女の子とキスしてたら嫌だって思うよ?でも、それは仕事だって思えば、全然大丈夫」 「萌果……」 「もし藍が私のことを気にして引き受けないって言うのなら、そんな遠慮いらないから。私のせいで、藍のチャンスを奪いたくないし。藍には、やりたいことをどんどんやって欲しい」 「……ありがとう!」 藍が、私のことを正面から力いっぱい抱きしめてくる。 「前にも言ったけど。私は、久住藍のファンだから。モデルだけでなく、俳優としての藍も見てみたいし。頑張る藍を見られる機会が増えるのは、素直に嬉しいよ」 私は、藍の背中に腕をまわす。 「私は藍のこと、一番に応援してるから」 「ありがとう。萌果ちゃんのおかげで、決心がついたよ。俺……頑張ってみる」 藍の目が細められ、端正な顔が近づいてくる。 そして、私の鼻先にチュッと唇を押しつけた。 「萌果ちゃん、大好きだよ」 「私も、大好き……んっ」 唇に、ついばむようなキスが繰り返し降ってくる。 藍の唇、柔らかくてキスすると気持ち良い。 「口、開けて」 「ふ……ぁ」 言われるがまま隙間を開くと、すぐに舌が入り込んでくる。 「は……、っん」 口内を深くまでむさぼられ、呼吸が上手くできなくなっていく。 「はぁ、やばい。キス止まんない……。俺、今夜は萌果を寝かせられないかも」 「っ、ええ!?」 ね、寝かせられないって……! 「んっ」 再び唇が重ねられ、またすぐに深く絡められる。 「ここで同居してる間は、イチャイチャし過ぎないって萌果と決めてたけど。今夜はふたりだけだから……いいよね?」 私の首筋にキスを落としながら、藍が妖艶に微笑む。 「うん。いいよ……今日は特別」 私も、藍ともっ
『ここ』と言って、藍がぽんぽんと叩いたのは、自分の足の間。︎︎︎︎︎︎ 「そっ、そんな!恥ずかしいよ!」 「なんで?今日は母さんもいないから、家には俺と萌果の二人だけだよ?」 「そうだけど……」 「久しぶりの、ふたりきりだから。俺、萌果とくっつきたいなぁ」 くっつきたいって、そんなにハッキリと言われたら……断れない。 ふたりきりの空間で、藍と見つめ合うこと数秒。 「おっ、お邪魔します」 私が何とか勇気を出して自分から藍の足の間に座ると、後ろからぎゅっと抱きしめられた。 「お邪魔って、全然邪魔なんかじゃないよ」 耳元で囁かれて、どきっと心臓が跳ねる。 ピタリと密着する体。背後から、藍の熱が伝わってきて……やばい。 藍との距離がいつも以上に近く感じて、ドキドキする。 あまりの近さに、私は耐えられず……。 「あっ。あの俳優さん!私、最近好きなんだよねぇ」 「は?」 私が咄嗟に指さしたのは、今たまたまテレビに映った、最近女子高生の間で人気の若手俳優。 塩顔イケメンの彼はテレビのバラエティー番組で、爽やかな笑顔を振りまいている。 「……萌果ちゃん、あの俳優が好きなの?」 「う、うん。柚子ちゃんもかっこいいって言ってたし。最近活躍してる人のなかでは、私も好きだよ」 「へー」 藍が、鋭い目つきでテレビを睨みつける。 「俺とこの俳優、どっちがかっこいい?」 「えっ」 「ねぇ、どっち?」 「……ひゃっ」 藍に後ろから抱きつかれながら、耳たぶに吸いつくようなキスをされて、思わずビクッと体が跳ねた。︎︎︎︎︎︎ 「萌果ちゃん、早く答えてよ」 「……あっ」 耳たぶを藍の舌が繰り返し這い、くすぐったさに震える。 「ら……待って」 体をよじりながら抵抗するも、後ろから抱きしめられているため身動きがとれない。 「萌果がちゃんと答えるまで、やめないから」 熱を帯びた唇が首筋をゆっくりと下っていき、パジャマの下に彼の手が滑り込む。 「ねえ、どっちが好きなの?」 「……っ、ら……んっ」 「なに?聞こえないよ」 藍ってば、ほんとイジワル! 「藍……だよ。私は、藍が一番好き」 「はい。よくできました」 ようやく藍の唇が離れ、ニコッと満足げに微笑まれる。 「これからは、他の男に好きって言うの禁止。萌果が好きって言っていいのは